NAGASAKI ATOMIC BOMB MUSEUM MEMORIAL DATABASE

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原爆資料館

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無題

無題 資料名無題
資料番号3-01-06-03-0007
寄贈年月日
寄贈者名 原川康行
資料説明

(作者コメント:原文のまま)●右上昭和20年(1945年)8月9日長崎に原爆が投下された。当日の午後、市内浜の町を通りかかった。商店街は人影はない。道路は商店のウインドガラスや窓ガラスが爆風で粉砕され、その破片がガラスの海と化していた。この爆破の瞬間ガラスの破片を頭にかぶりながら避難して行った人もいたであろう。●左上私の姉(当時13才)は三菱兵器大橋工場に勤務していた。当日家族は大変心配していたが、父も姉も家に戻らなかった。翌朝父(三菱製鋼茂里町工場)と姉を探して廻ったが、2人とも生死不明のまま探し当てることができなかった。3日目の夕刻、知人の知らせで姉の帰るのを知りすぐに迎えにでた。その時の悲愴な姿をこの絵に写しだしました。一本の竹竿にすがるように命を托し、助けをもとめながら足を引きずり呑まず食わずで必死で帰って来た。この3日間どこをどうやって来たのか言葉もでないので不明。頭は無数のガラスの破片が突き刺り、出血で赤黒く染った頭髪はバサバサ、衣服は汚れ引きさかれ血で染まり、まともな人の姿ではなかった。家庭での治療には限界があり、栄養食もなく日に日に気力は落ち、頭髪は抜け、歯ぐきからの出血は止まらず、下痢も続き衰弱してゆく一方であった。被爆後約1ヶ月の命を最後とした。●下新興善国民学校に救護病院が開設されたとき、早速姉をリヤカーで運んだ、救護病院は重症患者が治療の順番を待っていた。学校の児童の机を並べたベットの上に寝かされた女性患者が治療をうけていた。腫れあがった腕の汚い布切れをはぎとると、蝿が傷口に群がる。大きく口を開けた傷は蛆がわき、異臭が鼻をつく。医薬品や医療器具は不足していたが、患者は快復することを願って精一杯の治療をうけていた。(H14年度、NHK、長崎新聞社などと共催して募集した「被爆者が描く原爆の絵」作品)

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