NAGASAKI ATOMIC BOMB MUSEUM MEMORIAL DATABASE

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原爆資料館

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無題

無題 資料名無題
資料番号3-01-06-03-0004
寄贈年月日2002/6/24
寄贈者名 吉山裕子
資料説明

(作者コメント:原文のまま)八月九日原爆落下の日私(19才)は三菱長崎製鋼所ビル一階勤労課で課長、係長、始めお友達二十人ばかりで事務をとっておりました。 空襲警報が解除になり、部屋へ戻りしばらくしてから爆音がして皆んなで『おかしいね』と云った瞬間、窓の外でピカッーと閃光を見たと同時に、天井、壁、その他、いろいろの落下物の下敷きになったところ迄は記憶に残っています。私はどなたかに助けて頂いて三時間程意識がなくて自分に氣がついた時は梁川公園でタンカーの上でした。 何が起きたのかわかりませんでしたが 周囲は生き地獄でした。 どこを見ても焼け爛れた人々中でも男子の学徒報告隊の水ヲ!水ヲ!助けて!助けて!母ちゃん!母ちゃん!の叫び声が今でも耳に残り忘れることは出来ません。 何回もB29が抵空して来るので怖くて、、、私の右腕、右足は打撲で歩ける事も出来ませんでしたが、 躄って(お尻を土につけて)製鋼所へ向かいました。 途中、川の中では水を求めながら死んで浮いてる人を見ました。あの可愛想な状況は今でも忘れることは出来ません。やっと製鋼所へ着いたら同所に勤務していた姉も助っていて共に喜びあいました。 そこは怪我した人々、やけ爛れた人々、医者は居なくて、、、 傷の手当も出来ないまま唸る声、泣き声でした。 私も上の前歯四本が折れて、唇が切れて出血して、、、顔、後頭からも血が流れてどうしようもなく知らない方が布をくださって自分なりに手当をしました。 二晩そこで明し、家からリヤカーを引いて父と母と妹が迎えに来てくれました。 家に着き、鏡の前で自分の姿を見て驚きました。 人様の前に出られる姿ではありませんでした。 又当時は原爆を受けた身として結婚は出来ませんでした。 私はこの悲しい可愛想な場面を思い出すのが辛くて、今迄五十七年間、胸深くしまって生きて来ました。 今、七十七才になって、残すところあと何年、何月、何日、生きられるかと思った時、どうしてもこの悲しい出来事を若い人達に伝えたいと考へ、やっと描く氣になりました。 涙を流しながら描きました。今でも耳には水ヲ!水ヲ!助けて!助けて!母ちゃん!母ちゃん!の声が残っております。 こんな悲しい出来事があって戦争は終わったのです。 平和な毎日を送る事が出来るのも、こんな犠牲者の方々の上にある事を絶対に忘れてはなりません。合掌(H14年度、NHK、長崎新聞社などと共催して募集した「被爆者が描く原爆の絵」作品)

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